映画「アクト・オブ・キリング」あらすじ

1965年9月30日にインドネシアで軍事クーデター起きました。このクーデターは、共産党と共に国家転覆を企てたとされ、当時の軍のトップ6人が処刑されるという事件で、共産党から支持を受けていたスカルノ大統領が失脚する原因となった事件です。スカルノの失脚後、軍部のなかで上位の地位ではなかったスハルトが大統領の職につきました。そして、スハルトは国家転覆を図ったとされるコミュニストに対して大虐殺を行ないました。粛清の対象になったのはコミュニストだけではなく、労働組合に入っているものや知識人、農民などでした。疑わしいものはコミュニストとされ、弁解も許されず殺されたのです。この虐殺の規模は諸説あるのですが、100万人にもなると言われています。
 アクト・オブ・キリング』が撮影の対象とするのは、粛清の被害者やその家族ではなく、虐殺の加害者です。
 アンワルという人の良さそうなおじいさんが、過去に行なった殺人の数々を堂々と誇らしげに語ります。殺人のことを恥じたり、後悔しているという様子は全くありません。
当時、ダフ屋としてヤクザ同然であったアンワル青年は、軍の後ろ盾によって何百人という人々を殺めました。アンワルは殺人のやり方を身振りを交えて楽しそうに語ります。殺人の詳細を当事者が意気揚々と語るだけでも、他の映画と一線を画するものがあるのですが、この映画の特異な点は、虐殺をした当事者が虐殺の様子を再現する点です。まるで、劇や映画のように。
アンワルは映画スターにでもなったかのように殺人の再現をします。再現の具合はチープなものですが、演じている加害者たちは一様に真剣です。そのギャップは映画を観る観客に笑いを喚起させるのですが、再現されていることが殺人なだけに、笑って良いのかどうか判断がつきかねます。
 しかし、アンワルは殺人の再現をしていくうちに様子がどんどんおかしくなっていきます。いや、半世紀を経て、ようやく彼は正常な倫理観をとり戻していく。

映画「アクト・オブ・キリング」感想

加害者側が虐殺の詳細をを包み隠さず、オープンにしてくれるのは、罪の意識がないのはもちろん、監督がアメリカ人というのが理由です。彼らは、アメリカの反共の手助けをしたという意識であり、アメリカ人も自分たちの仲間という考えで、同志とみなしているのです。オッペンハイマー監督は彼らのその考えにつけこんで、虐殺の詳細を彼らから自発的に引き出させます。監督は、取材対象者である加害者側を手のひら上で転がし、意のままに操っているので。虐殺の加害者たちは、それに気づかず、撮影を自分たちの英雄的行為を宣伝するためのものだろうとすら思っています。オッペンハイマー監督の思惑のもとに形成されたたこの絶妙なバランスがこの映画を支えているのです。
 アンワルは過去に自分が犯した殺人について、後悔の念が入ったような発言をしだします。そして、それはアンワルが被害者の役を演じる際に如実に表れます。ワイヤーで首を巻かれる場面を再現する際に、堪らなくなって中断するのです。ここで、彼は被害者の気持ちになって、自分が何をしたのかについて認識します。
アンワルは映画のクライマックスで、激しく嗚咽を繰り返します。彼が良心の呵責に苦しんでる様子が手に取るように分かります。彼をここまで追い込み、そして変化させたのは、カメラと殺人の再現の芝居によるものです。仮にカメラがなかったとしたら、彼は殺人の再現を積極的に、真摯に行わなかったでしょう。
続編にあたる、『ルック・オブ・サイレンス』でも加害者が数人でてくるのですが、彼らはアンワルと違い、反省する様子はありません。『アクト・オブ・キリング』でアンワルがフィーチャーされた要因として、彼には心情の変化が見られたからなのだと思います。
当時の日本や西側諸国は、虐殺について黙殺しました。この映画は、忘れ去られた歴史の一部を掘り起こしたのです。そして、一人の人間を変えました。撮る側と撮られる側、それに観る者を考えるうえで重要な作品であると思います。